• 暮らすように旅したい
プロローグ〜1998年7月
Super Cat
Super Cat

 1998年7月末に年末にボホール行く計画を立て、その後フィリピン航空が廃業しましたが、すぐ復活し12月27日~1月1日まで5泊6日のツアーを実施しました。

鍵を預けちゃった

 成田空港で荷物を預けるために並んでいた 時,ハードケースの鍵を車のキーと一緒に駐車場業者に預けてしまったことに気付き、慌てて駐車場業者に電話して鍵を持ってきてもらい事なきを得ました。
 冬に南国に行くときは、車内を暖房してTシャツ一枚で空港に行くことにしているため、飛行場渡しの業者を使っていました。

マニラからセブへ
ボホール・シーブリーズ全景(当時)
ボホール・シーブリーズ全景(当時)

 マニラからセブまでは順調に行き、セブで現地ガイドのジョージと会えればもう安心です。エアポートを出て暫く探しているとジョージがいました。暫し再開を喜び、タクシーで港に向かい港からSuper Catでボホール島へ向かいました。

アイスクリームがひとつ190ペソ

 夕食をボホールダイバーズ(フィリピン・ファンダイバーズ)のレストランで取っていた時、“ハロハロ”の食える店を知らないかとウェイトレスに聞いたところ知ってるから、店が終わったら行こうということになって、22時過ぎに待ち合わせをしてプラネットバーという店に行きました。そこでハロハロと言ったら夜は無いよとあっさり言われて仕方なく“ハロハロフレーバー”というアイスを選びました。1つ190ペソと言うのでえらく高いなと思ったら、1リットル近いパックが190ペソということで5人で腹一杯アイスを食べました。
“明日のダイビング中にバッファローフィッシュみたいになったらやだよね”

ボホール・シーブリーズ1階
ボホール・シーブリーズ1階
ボホール・シーブリーズ1階ベランダ
ボホール・シーブリーズ1階ベランダ
建設中の個室
建設中の個室
プラネットバーにて
プラネットバーにて
アロナビーチ
アロナビーチ
こっ腰が!
ダイビングボート
ダイビングボート

 そう言えばここのタンクは私の嫌いなアルミなんですよね。アルミタンクは重いし(10リットルのタンクならスチールタンクは12kgだけどアルミタンクは14kg)、水の中ではスチールに較べ比重が軽いから、その分ウェイトも増やさなければいけないし(エアーが半分になった辺りでマイナス浮力からプラス浮力に変わる)、長くて背負ったまま座りにくいし、脆いし、コストが安いから多く使われているんだろうけれど好きじゃないな。そう言うわけで、1Kg玉を2個BCDのポケットに入れて(お奨めしません)、背負おうとした時、グキッと腰がっ...そのまま我慢して飛び込んだのはいいけど、ちょっとでも腰を動かすとズキッと激痛が走り動こうにも動けません。ドリフトなので何とか45分のダイビングを終えることが出来ました。
 激痛と戦いながら、ムレハタタテダイの群れやカスミアジに接近したりナポレオンを見ました。何とかエギジットしたけどその場に倒れ込んだまま動けず、当然その日のダイビングはキャンセルし、結局翌日も、翌々日もダイビングはキャンセルすることになり、3ボート、1ビーチで今回のダイビングは終わってしまいました。
 日本では冬にドライスーツにアルミタンクで10kgのウェイトをして何度も潜ってるのに気が緩んだとしか思えません。

ジュース屋のおばさん

 朝になっても一向に良くならずベッドから降りるのも一苦労です。このままではあまりにつまらないと思い、ビーチを散歩したり昼寝したり、すっかり欧米人並のリゾートライフを堪能することにしました。ビーチを歩いていると小さなカウンターだけの店がありメニューを見てるとおばさんが「You try ?」なんて言っています。メニューには「ICE made filtered water」と書いてあり良心的だなあと思ってバナナシェークを注文しました。おまけだと言って1杯半頂きました。
 味は気に入ったか?と聞くので“マサラップ!”と答えると、それはタガログ語、ビサヤ語では“ラメよ”と教えてくれました。おばさんはココアを入れると隣に座って色々話し始めました。旦那さんはアメリカ人であること、マキという名の日本人がセブに住んでいて良くここに潜りに来ること、ジェットスキー(20分間で500ペソだって)やパラセールも出来ること、イルカウオッチングのボートも出ること等々。私はこの店が結構気に入り、翌日もジュースを飲みに行きました。その時は旦那さんもいて私に瓶から出した漬け物を食べろと差し出してくれました。タクアンに見える漬け物を食べると味も歯触りもタクアンそのものです。旦那さんは自慢げにどうだ俺が漬けたんだ。マングローブの根を使ったんだよと言っています。日本びいきなのかフィリピンにもタクアンがあるのか知りませんが、この店が益々気に入ってしまいました。この次に行ったときはバナナケーキも食べてみようと思っています。

レナちゃん

 ある日、ビーチ沿いの店でマンゴーシェークを飲んでいると、「こんにちは」と日本語で声をかけられました。黒いタンクトップを着た浅黒く日焼けした女性が微笑んでいました。
こんな所で日本人に会うなんて珍しいですね、なんて互いに言いました。アロナビーチは欧米のリゾート地として有名でしたがこの当時は日本人が来ることは珍しかったのです。
レナちゃんはこの辺りのショップでダイビングインストラクターをしていて、地元のフィリピン人にもよく知られていました。この後も何度もボホールに訪れるたびに頑張って働いてる姿を目にしていましたが、やがてボホールダイバーズをフィリピン・ファンダイバーズとしてドイツ人と共同経営するに至ります。

レストラン前
レストラン前
最後の晩餐はチャイニーズレストランで

 31日は、相棒はいつものようにダイビングに出かけ、私はレストランやダイビングフィーの精算を行い、土産物屋でTシャツを買ったりして過ごしました。
15時40分頃アロナビーチを発ち、トライシクルの行き交う街中を抜けてタグビラランの港に向かい、当初の予定より1本早めの船でセブに向かいました。
 ジョージに案内されて行ったチャイニーズレストラン「白金(White Gold)」は豪華で赤い絨毯の敷き詰められた螺旋階段を登りホールに入ると店長らしき人が「社長々々」と言いながら近づいてきます。各自思いつくまま好きな料理をオーダーし、最後の晩餐を堪能しました.

New Yearパーティ

 オスメニアサークル近くのホテル(以降我等の定宿となるバケーションホテル)に戻る頃には街のあちこちから花火の音が聞こえてきます。それが次第に激しくなり、窓の外を見るとまるで市街戦のような爆発音と空を焦がす閃光と煙そして火薬の臭いです。ロケット花火もあり、日本のものとは較べものにならない程の火の粉を撒きながらホテルより遙か高く飛んでいきました。毎年けが人が多く出る理由が良くわかります。セブのホテルで迎えた正月は一生想い出に残ることでしょう。
 翌朝、街を歩いていると街頭で花火を売っていました。話の種に買って帰りたいところですが密輸するわけにいかず諦めました。

エピローグ

 元日は20時頃に成田に着き、その足で行きつけのカフェバーに向かいました。元旦からほぼ満員の店の一番奥に座り、土産話に花を咲かせました。
 私にとって初めてのボホール体験で、語りつくせない程楽しい思い出でいっぱいで、以降頻繁にボホールに通うことになります。


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